一時的な関係を大切にすること

昔から僕は続かないと分かっている人間関係を尊重するのが難しいと感じてきました。

短期的な人間関係を潜在意識的に次のように考えていました。未来のある時点XでYさんと時間を過ごすことができなくなる(そして以後、交流する機会は訪れない)と分かっているならば、Xの後に振り返り考えてみれば、Xの前にYと過ごした時間は無駄遣いだった(つまり、もっと良い時間の過ごし方があった)のではなかったのか?なぜなら、Yは僕の目前の生活にはもう関わっていないから。

結果、時にはある人と離れなければいけない日が近づくとその人と距離を置き始めてしまう自分がいる。いきなり全ての連絡を断ち切るなど極度なことはしませんでしたが、一緒に過ごす時間を次第に減らし、「どうせ意味ないんだ」という気持ちで自分を正当化していた。

この思考パターンは僕の生い立ちからの幾つかの経験の結果だと思う。小学校を卒業した時、親は友達がみんな行く中学校かホームスクール(家庭を拠点として親が教育を行うこと)の選択を与えた。理由は覚えていませんが、ホームスクールを選びました。これは一人の親友以外の友達から僕を切り離しました。翌年、家族は長野から東京へ引っ越し、僕は国際学校に通い始めた。一年目に、前は可能だと知らなかったほど親密な友情を築いた。残念なことに、その友達は一年後に海外に引っ越すことになり、それから一回も会っていません。親は僕の通っていた国際学校の寮を勤めていたので、一緒に住んでいる人は毎年変わっていました。このパターンは大学の寮、友達とのシェアハウス、そして今住んでいるゲストハウスで繰り返されている。

この経験に共通しているのは、主に物理的に離ればなれになることで人間関係が強制的に壊されたということです。これは決してユニークな経験ではないということは分かっていますが、僕は平均的な人より強い影響を受けたような気がします。(それか他の人がこの課題について話すのを聞いたことが無いだけか。)

これらの経験を通して、短期的関係を嫌うようになり、二人の人が恒久的に離れることがないという理想の関係のイメージを形成した。(これは決して不可能ではありません。実際、狩猟採集民などの社会ではこれは当たり前です。)

この考え方に潜んでいたのは恋愛という種類の関係で一番明らかな思い込みだった——結婚に至る以外の結果は失敗である、と。一般的な関係ではこの考え方は、関係が終わることがあればその関係は失敗だった、ということになる。連絡を取り合わないことになれば、その関係はそもそもそこまで良くも大事でもなかったことになる。

これは人工的であってもあらゆる手段を使って関係を維持しようとする衝動を創出する。例えば、地理的に離れている友達とスカイプする行為を考察してみてください。これは直面的な交流に劣る代用です。限られた聴覚情報と視覚情報しか含まず、会話を続けるには画面に釘付けでなくてはならない。ゲーム、食事、散歩、映画の視聴など、実際一緒にいたらやることができません。話すことしかできず、その多くはただの情報の交換でしかない。

もちろん会話は価値がない、と言おうとしているのではありません。しかし会話しかない関係が本当に親密であることが可能でしょうか?定期的にスカイプすることで二人の人が離れる前にあった親密感を保つことは可能でしょうか?

僕は無理だと思います。そもそも親密感が養われるのは(関連するかもしれないが)深い会話に何時間も費やすからではなく、人生を一緒に歩み、生活を共にしていくからだ。チャールズ・アイゼンシュタインがうまく説明している。

「本当の親密感が成り立つのは自分の生い立ち、関係、健康問題などについて話すことからではなく、自分の本当の特性を引き出し、手元のタスクに必要な自分の側面を示すために自分を招く共同の創造を通してです。後に親密感が養われた時、自然に自分のことを話すかもしれません——又はその必要は無いかもしれません。
なぜ子供の時の友情関係が大人の時のと比べてもっと緊密且つ親密であったかを考えてみたことはありますか?少なくとも私のはそうであったという記憶があります。感情について腹を割って話し合ったからではありません。幼なじみとはきっと言葉で伝えられなかった緊密感を感じた。一緒に物事をやり、一緒に物を作った。」(俺訳)

僕は理想の人間関係を築いて維持しようとすることに集中してしまったことによって、一時的な関係を見くびり、「今」という現状で実際僕の近くにいる人から気が散らされていた。

既に同感している本を読むこと

僕は既に同感している内容の本を基本的に読まないことにしています。

理由はそもそも本を読む目的にあります。それは、考え方を変えることです。新しい着想にさらされ、今持っているパラダイムへの異議を聞きたいです。

フェイスブックで自分の考えを投稿し、友達が似たようなことが書かれている本を勧める時、ちょっと笑いたくなります。これは思いやりのある意思表示としてやっていることは分かっていますが、根本的にどういうやり取りが行われているのかを考えてみてください。

僕:「俺はXだと思う。」
友達:「この本もXと言っているよ。読んでみな。」

これは他の可能性を考える機会も無く信じていることを強固にするサイクルを作り出してしまうかもしれないので、僕は不健康だと思います。個人的には、自分の考え方とは異なる世界観を奉じる本を勧めてもらった方がよっぽど嬉しいです。

既に同感している内容の本を読むことには価値がない、と言おうとはしていません。同感している本でも、あるものを違う視点から見たり、観念の新しい言語表現の仕方など、プラス要素はあるかもしれません。しかし要は価値があるかではなく、どれがより価値のある物なのかです。「あなたが正しい」と言ってくれる本より自分の信じていることが本当なのかと問いかけてくれる本の方が利益をもたらしてくれるのではないでしょうか?

読者の皆さんが既にこの投稿と同感していないと良いんですけどね ^^;

意味を探し求める

「人生の意味は何か?」

良く聞かれる質問ですね。

僕は長い間、答えは明らかだと思っていました。しかし、最近信じていることが大幅に変わるとともに、満足できる答えを見つけるのに人生で初めて苦闘しています。

前は意味を死後の世界に基づかせていました。特に、今の地球での人生に意味があったのは、まさにその後の来世が理由であった。そして、その来世の状態は今、地球でどう生きるかによって決まるのだった。来世の無い人生に意味があるとは思えませんでした。

以前は人生の意味を死後の世界に基づかせていました。特に、今現時点の地球での人生に意味があったのは、まさにその後の来世こそが理由であり、そして、その来世の状態は、今現時点の地球でどう生きるかによって決められている。来世の無い人生に意味があるとは思えませんでした。

昔の僕の考え方に潜んでいたのは、何かがいずれ終わる、又は消滅する物であれば結局無意味である、という観念でした。非恒久性は意味の敵だった。今ではこのような考え方は多くの宗教(例えば僕が幼い頃から教えられてきたキリスト教)やニュートンの世界観であった決定論を伴う仮定であると認識できます。さらに、これが真実でなくてはならない理由は一切思い浮かびません。

来世がどんな形であれ絶対存在しない、と信じているわけでもないです。ただ、意味を来世だけから見いだそうとしないのです。非恒久な物から意味を見つけることを学んでいるのです。

さてと、探すのに戻ろうかな。